トートの坩堝

知識の掃き溜め。そう、備忘録のことさ。

勘と直観、仮説思考について

普段は、ゴミ溜めとかしたGmailの受診ボックス。いつもスルーしているメルマガを、なぜか今日は気になって少し覗いてみた。

そこでこれまた、たまたま気になって読んだのが、小林秀雄の直観に関するエッセイである。これを読んで、「考えること」について少し考えてみた。

kangaeruhito.jp

 

ここで語られる「勘」というものは、例えば、山師あるいはギャンブルをする人間、それと受験生くらいが持っている神話のような能力を指すものだ。要するに、非論理的な推測のこと。

 

だが、小林秀雄が言うように、「勘」というものはすぐさまそのように切り捨てられるものではないのかもしれない。そもそも勘とは、山勘と直観を包摂した表現であり、山勘は先ほど述べたような神話、直観は人間の持つ感性・感覚、経験則から導き出されるパターンに近いのではないだろうか。

 

であるならば、山勘は別として直観には何か考えることの本質が隠れているように思いう。最近、仮説思考というものを学んでいる。これは思考の効率化のようなもので、つぶさにさまざまな可能性をひとつずつ考えていくではなく、ある経験則やヒントを道しるべに、その最初に感じたインスピレーションの確かさらしさを論理的に推察していく思考法である。

 

直観とは、つまり仮説のエッセンスそのものではないかと考えたのだ。直観はこれまでの経験則から集積されたエッセンスであり、個人の常識や一般ルールなどを基に検証を始める起点として大いに役立つと思う。

 

将棋や囲碁を打つひとたちが長考をするのは、さまざまな可能性を一つずつ検証しているのではなく、ある直観=仮説の確からしさを検証する時間に割いているらしい。

 

仮説思考も論理的なツールではあるけれども、最初のさいしょは直観が必要になってくる。