トートの坩堝

知識の掃き溜め。そう、備忘録のことさ。

余暇の時代がやってくる(いや、すでにきている)

働き方改革などが、国をあげて取り組み始め、プレミアムフライデーやら何やらで一時盛り上がり、その後も各業界で被雇用者の労働について真摯に考えるようになった。

 

この最近の動きには、ひとつはいまの日本が労働者不足で売り手がアドバンテージを取れるようになった側面がある。もうひとつは、いまの働き手の価値観が報酬よりも余暇の時間を求めるようになってきたのも大いにあるのではなかろうか。

 

これまでの報酬を増やせば増やすほど、人は色々なものが買えて、その分幸せを増幅で出来ると考えてきたところに、あれ?違うかも。と考え直した世代が出てきた。

 

報酬と余暇(24時間ー労働時間)を天秤にかけて、幸せを担保できる最低限の報酬を除いては、それ以上を求めなくなった。そう思う人が増えているように感じる。

あくまで報酬は手段であって、それを多く求めることが目的ではない。言われてみれば至極当然のことなのだけれど、そういうことをアクションし始めている子が多くなったのだろう。

 

そうなると、働き方改革も大事なのかもしれないが、僕が懸念するのは休み方改革のほうだ。

 

一部の人たちは、労働による自己実現が不可能だと知り、余暇に勤しんでいるだろう。でも、それでも会社で働く多くの人達は労働を中心とした生活を営んでいる。その人達が、政府が掲げる働き方改革なるものによって、徐々に労働時間を減らされ、その分余暇が増えるとなれば、恐ろしいことが起きるのではないかと思っている。おそらく杞憂に終わる心配事だと考えているが、可能性の一つとして払拭できない。

 

日本人はよく休み方がへただと揶揄されるが、たしかに普段は仕事に打ち込み、休日のことなどあまり考えたことがない人も少なからずいるだろう。そのような人が、急に週休3日など言われて、休みを取らされたらどうなるだろうか。冗談じゃなく、気が滅入って、かえって仕事の効率が落ちやしないかと思うのです。

 

僕たちは、いま働き方改革なるもので休日うぇーい!となっているのかもしれないが、一方で休み方改革も同時に推進しなければ、ほんとうの意味で個々人のQOLは高まらないだろうし、仕事も充実しないと思う。

 

じゃあ、具体的に休み方改革は何をすればよいのか。そこまではまだ考えが至っていないのでここいらで筆を置かせてもらう。

 

 

 

 

勘と直観、仮説思考について

普段は、ゴミ溜めとかしたGmailの受診ボックス。いつもスルーしているメルマガを、なぜか今日は気になって少し覗いてみた。

そこでこれまた、たまたま気になって読んだのが、小林秀雄の直観に関するエッセイである。これを読んで、「考えること」について少し考えてみた。

kangaeruhito.jp

 

ここで語られる「勘」というものは、例えば、山師あるいはギャンブルをする人間、それと受験生くらいが持っている神話のような能力を指すものだ。要するに、非論理的な推測のこと。

 

だが、小林秀雄が言うように、「勘」というものはすぐさまそのように切り捨てられるものではないのかもしれない。そもそも勘とは、山勘と直観を包摂した表現であり、山勘は先ほど述べたような神話、直観は人間の持つ感性・感覚、経験則から導き出されるパターンに近いのではないだろうか。

 

であるならば、山勘は別として直観には何か考えることの本質が隠れているように思いう。最近、仮説思考というものを学んでいる。これは思考の効率化のようなもので、つぶさにさまざまな可能性をひとつずつ考えていくではなく、ある経験則やヒントを道しるべに、その最初に感じたインスピレーションの確かさらしさを論理的に推察していく思考法である。

 

直観とは、つまり仮説のエッセンスそのものではないかと考えたのだ。直観はこれまでの経験則から集積されたエッセンスであり、個人の常識や一般ルールなどを基に検証を始める起点として大いに役立つと思う。

 

将棋や囲碁を打つひとたちが長考をするのは、さまざまな可能性を一つずつ検証しているのではなく、ある直観=仮説の確からしさを検証する時間に割いているらしい。

 

仮説思考も論理的なツールではあるけれども、最初のさいしょは直観が必要になってくる。